LOGIN私はスマホの画面を見つめたまま固まっていた。
『今日はありがとうございました!またみんなで飲みたいです!』
送信者は、『秋山 美咲』。
知らない名前だった。
でも、悠斗のスマホに届いた通知ではない。
私のスマホだ。
私はゆっくり画面を開く。
どうやらメッセージアプリの「知り合いかも」の通知らしい。
共通の知り合いがいる場合に表示される、あれ。
プロフィール写真には若い女の子が映っていた。
明るい茶色の髪。
大きな目。
ふわっとした笑顔。
二十代半ばくらいだろうか。
私は何となくその名前を頭の中で繰り返す。
秋山、美咲。
……もしかして。
昼間、悠斗が言っていた後輩?
そう考えた瞬間、自分でも嫌になるくらい胸がざわついた。
別におかしくない。
会社の後輩なんていくらでもいるし、共通の知り合いとして表示されることだってある。
ただそれだけ。
私はスマホを伏せる。
「考えすぎ……」
小さく呟く。
でも、一度気になってしまうと駄目だった。
どんな子なんだろう。
悠斗と仲いいのかな。
可愛い子だな。
若い。
胸の奥がじわじわ苦しくなる。
なんでこんなことで。
自分でも呆れる。
私は立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
何か飲もうと思ったのに、何を取りに来たのか分からなくなる。
その時、玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
悠斗だった。
私は慌てて冷蔵庫を閉める。
「おかえり」
「腹減った」
ネクタイを緩めながら、悠斗は当然みたいに言った。
私は反射的に答える。
「何か作る?」
「あー、軽くでいい」
「わかった」
キッチンへ向かいながら、ふと気づく。
さっきまでの疲れが、もうどこかへ行っていた。
悠斗が帰ってきた瞬間、私はまたいつもの私に戻っている。
冷蔵ご飯を温める。
味噌汁を火にかける。
残っていた唐揚げを皿に移す。
「お、唐揚げ」
悠斗が少し嬉しそうに言った。
「食べる?」
「食う」
私は思わず笑ってしまう。
「昨日いらないって言ったのに」
「今日めっちゃ腹減ってる」
そう言いながら、悠斗は当然みたいに席へ座る。
私はその姿を見て、胸の奥が少しだけ温かくなる。
……単純だな、私。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
悠斗は唐揚げを一口食べると、「うま」と呟いた。
それだけで嬉しかった。
昨日あんなに落ち込んでいたのに。
食べてもらえるだけで全部どうでもよくなる。
私は向かい側に座りながら、ぼんやりそんなことを考える。
「今日、後輩来なかったんだね」
「あー」
悠斗はスマホを見ながら頷く。
「なんか急に別件入ったっぽい」
「そうなんだ」
「また今度になるかも」
私は何気ない顔で頷く。
でも少し迷ってから、なるべく自然に聞いた。
「どんな子?」
「ん?」
「後輩さん」
「あー、普通」
「普通って」
私が笑うと、悠斗も少し笑った。
「まあ、最近の子って感じ」
「へえ」
「仕事はできるよ」
その言葉に、なぜか少しだけ胸がざわつく。
私は箸を持つ手を止めないようにしながら聞く。
「女の子?」
「そう」
あっさりした返事。
隠す様子もない。
だからこそ、余計に何も言えなくなる。
「真琴?」
「え?」
「食わないの?」
「あ、ごめん」
私は慌てて味噌汁を飲む。
熱かった。
「なんか今日ぼーっとしてんな」
「そうかな」
「仕事疲れ?」
「……かも」
本当は違う。
でも、自分でも説明できなかった。
ただ『女の後輩』って聞いただけなのに。
なんでこんなに落ち着かないんだろう。
その時、悠斗のスマホが震えた。
悠斗は画面を見る。
そして、少しだけ笑った。
本当に少し。
でも私は、その表情を見逃さなかった。
「誰?」
気づけば、口から出ていた。
悠斗は一瞬だけ目を瞬かせる。
「会社のグループ」
「あ、そっか」
私はすぐ笑う。
「変なこと聞いてごめん」
「別にいいけど」
悠斗はそう言いながら、スマホをテーブルに伏せた。
その仕草が、妙に引っかかる。
私は唐揚げを口に運ぶ。
冷めていた。
レンジで温めたはずなのに、なぜか味がしなかった。
食卓の上には、いつも通りの時間が流れている。
なのに胸の奥だけが、静かにざわついていた。
扉の前で、私は一度だけ足を止めた。 中から聞こえる声は、穏やかだった。 誰かが笑っている。 器が触れ合う小さな音もする。 怖い場所ではない。 それは分かる。 でも、初めての場所の扉を一人で開ける時、胸はどうしても少し硬くなる。 私は案内の紙をもう一度確認した。 開催時間は合っている。 場所もここで間違いない。 販売会の日。 来てもいい日。 見てもいい日。 そう自分に言い聞かせ、扉に手をかけた。「失礼します」 小さく声を出して中へ入る。 最初に感じたのは、土の匂いだった。 強くはない。 湿った土と、木の棚と、少しだけお茶の香りが混ざったような匂い。 書店の紙とインクの匂いとは違う。 でも、不思議と落ち着く。 入口の近くに、受付代わりの小さな机があり、そこに作家さんが立っていた。「あ」 私に気づいた作家さんが、ぱっと表情を明るくした。「来てくださったんですね」 覚えていてくれた。 それだけで、緊張が少しほどける。「はい。案内を見て」「ありがとうございます。遠くなかったですか?」「大丈夫でした。少し迷うかと思いましたけど、看板があったので」「よかった。今日はゆっくり見ていってください」「はい」 私は小さく頭を下げた。◇◇◇◇ 工房の中は、思っていたより広くはなかった。 白い壁と木の床。 棚には器が並び、中央のテーブルにも皿や鉢が置かれている。 奥には、作業場らしい場所が少し見えた。 道具。 布をかけられた棚。 粘土を置く台のようなもの。 ここで器が作られているのだと思うと、胸が少し静かに鳴った。 書店の展
電車の窓の外を、見慣れない町並みが流れていく。 乗り換えは一回。 スマホで何度も確認したから、間違えることはないはずだった。 それでも、駅が近づくたびに少し緊張する。 仕事へ行く電車ではない。 誰かと待ち合わせをしているわけでもない。 ただ、私が行ってみたいと思った場所へ向かっている。 それだけなのに、膝の上のバッグを持つ手に少し力が入った。 窓ガラスに映る自分の顔を見る。 淡いグレーのブラウス。 小さなイヤリング。 少し硬い表情。 でも、嫌そうではない。 不安と楽しみが同じくらい混ざった顔だった。 乗り換えの駅に着く。 私は人の流れに合わせて降り、案内板を見た。 次に乗る路線のホームは、少し離れている。 スマホを見なくても案内は分かる。 でも、念のため画面を開く。 大丈夫。 合っている。 私は改札内の通路を歩いた。 休日の駅には、仕事の日とは違う空気がある。 急いでいる人もいるけれど、どこか全体が少しゆるい。 家族連れの子供が、ホームの端で電車を見ている。 大きな紙袋を持った女性が、友人らしい人と笑いながら歩いている。 私もその中にいる。 知らない場所へ行くひとりの人として。 そのことが、少しだけ嬉しかった。◇◇◇◇ 乗り換えた電車は、最初の電車よりも空いていた。 窓際の席に座ると、外の景色が少しずつ住宅街へ変わっていく。 高い建物が減り、低い家が増える。 小さな公園。 古い商店。 細い川。 線路沿いの花壇。 私はスマホの地図を開き、目的地の駅まであといくつかを確認した。 工房までは、駅から徒歩十分。 歩ける距離だ。 迷っても、
土曜日の朝、私は目覚ましより少し早く起きた。 まだ部屋の中は静かで、カーテンの向こうから薄い光が入っている。 今日は工房へ行く日。 そう思った瞬間、胸が少しだけ鳴った。 緊張している。 でも、嫌な緊張ではなかった。 知らない場所へ向かう前の、少し背筋が伸びるような緊張。 私は布団から出て、カーテンを開けた。 薄い青の布が左右に寄り、朝の光が水色の花瓶に当たる。 花はもう終わりかけていた。 それでも、最後の色を残すように静かにそこにある。 クラゲのキーホルダーも、いつもの場所で揺れていた。「おはよう」 小さく言う。 それから食器棚を開けて、青みのある深皿を取り出した。 今日の朝も、この器にヨーグルトを入れたいと思った。 プレーンヨーグルト。 ブルーベリー。 少しだけ蜂蜜。 丸いテーブルに置くと、いつもの朝食なのに、今日だけ少し意味が違って見える。 この器が生まれた場所へ行く前の朝。 そう思うと、普通のヨーグルトまで、少し旅支度をしているようだった。◇◇◇◇ 朝食を食べながら、私は今日の予定を頭の中で確認した。 午前中に洗濯を済ませる。 軽く掃除をする。 昼前の電車に乗る。 工房の最寄り駅までは、乗り換えが一回。 駅から徒歩十分。 販売会は午後からでも間に合うけれど、あまり遅くならないうちに行きたい。 緊張すると、段取りばかり考えてしまう。 でも今日は、段取りで自分を縛るためではなく、自分が安心して出かけるために確認している。 その違いを、少し分かるようになっていた。 ヨーグルトを食べ終え、器を洗う。 布巾で拭いて、食器棚に戻す。 今日は使った器を置いて出かける。 帰ってきた時、この器が棚にある。
工房の販売会の案内を見つけてから、私は何度かスマホの写真を開いた。 最寄り駅。 地図。 開催時間。 作家さんの名前。 写真展示協力として小さく書かれた、朝倉さんの名前。 その全部を、もう何度も確認している。 それでも、見るたびに少し胸が鳴った。 展示とは違う。 書店の二階ではない。 いつもの帰り道でもない。 電車に乗って、知らない駅で降りて、工房まで歩く。 それはほんの小さな外出のはずなのに、私には少し遠く感じられた。 以前の私なら、たぶん行かなかった。 気になると思っても、詳しくないし、一人で行くのは緊張するし、何も買わなかったら申し訳ないし、と理由を並べてやめていたと思う。 でも今は違う。 緊張しても、行ってみたい。 詳しくなくても、見てみたい。 何かを買うかどうかは、行ってから考えればいい。 そう思える自分がいた。◇◇◇◇ 土曜日に行くと決めてから、私は少しずつ準備をした。 といっても、大げさなことではない。 電車の時間を調べる。 駅から工房までの道を確認する。 財布に少し多めに現金を入れる。 エコバッグをひとつ畳んでおく。 それだけ。 でも、その一つ一つが、私を少しずつ工房へ向かわせているようだった。 金曜日の夜、私は丸いテーブルに座って、スマホの地図を見ていた。 水色の花瓶は窓辺にある。 クラゲも、いつもの場所で揺れている。 食器棚には、青みのある深皿。 その器があるから、私は工房へ行ってみたいと思っている。 作った人の場所。 器が生まれる場所。 そこに置かれる朝倉さんの写真。 考えるだけで、少しそわそわした。 私はノートを開いた。『明
それから数日後、書店の掲示板に新しい案内が貼られていた。 仕事帰りに前を通った私は、ほとんど癖のように掲示板へ目を向けた。 児童書フェア。 読書会。 手作り市。 その下に、見慣れない薄い生成り色の紙がある。『小さな器の販売会』 その文字を見た瞬間、足が止まった。 会場は、電車で少し行った場所にある工房。 開催日は来週の土日。 作家さんの名前。 そして小さく、写真展示協力として朝倉蓮の名前があった。 胸が静かに鳴る。 ついに案内が出た。 私は紙に書かれた地図をじっと見た。 知らない駅。 知らない道。 この書店の二階とは違う場所。 少し遠い。 少し緊張する。 でも、行ってみたい。 その気持ちは、前よりはっきりしていた。 私はスマホを取り出し、案内の写真を撮った。 すぐに誰かへ送ろうとして、手を止める。 まず、自分で予定を見よう。 来週の土曜日。 午後なら行ける。 日曜は洗濯と買い物をしたい。 土曜の午前に家のことを済ませて、午後に工房へ行く。 そう考えると、少し現実味が増した。 私はカレンダーを開き、小さく入力した。『器の販売会』 保存する。 それだけで、胸の奥に小さな灯りがともった。◇◇◇◇ 部屋に帰ってから、私は改めて案内の写真を見た。 工房の最寄り駅。 徒歩十分。 住宅街の中にある小さな場所らしい。 販売会といっても、大きなイベントではなさそうだった。 少し不安になる。 一人で行って浮かないだろうか。 詳しくないのに見てもいいのだろうか。 何も買わなかったら悪いだろうか。
展示が終わった翌週、私は仕事帰りに書店の前で足を止めた。 掲示板から、『小さな器と暮らしの写真展』のチラシは外されていた。 そこにあったはずの白い紙。 器の写真。 朝倉さんの名前。 それらがなくなった掲示板は、少しだけ広く見えた。 代わりに貼られているのは、児童書フェアの案内と、地域の読書会の告知。 手作り市の日程。 知らない町の知らない予定。 展示が終わったことは分かっていた。 それでも、実際にチラシがなくなっているのを見ると、胸の奥が少しだけ寂しくなる。 でも、その寂しさは前のように空っぽではなかった。 あの展示で見た写真は、もう私の中にある。 青みのある深皿は、私の食器棚にある。 普通のヨーグルトを入れた。 ブルーベリーをのせた。 かぼちゃも、トマトのマリネも、少し濃くなった茄子の味噌炒めも入れた。 展示は終わった。 でも、そこから持ち帰ったものは、私の普通の日の中で続いている。◇◇◇◇ 店内に入ると、紙とインクの匂いがした。 入口の平台には、前とは違う本が並んでいる。 季節の料理本。 短いエッセイ。 小さな旅の本。 私は棚の間をゆっくり歩いた。 二階にはもう上がらない。 展示室は片づけられているだろう。 白い壁も、今は何も飾られていないかもしれない。 そう思うと少し寂しい。 でも同時に、次の何かを待つ場所でもあるのだと思った。 朝倉さんが言っていた。 写真は、展示が終わると箱に入って次を待つ。 本も待つ。 器も、誰かの家で使われながら時間を重ねる。 終わることは、消えることではない。 次の場所に移ることもある。 私は暮らしの棚の前で足を止めた。 器の本を
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。
その日から私は少しだけ悠斗のスマホが気になるようになった。 別に見るつもりはない。 そんなことしたくないし、したら終わりだと思う。 でも。 通知が鳴るたび、無意識に視線が向いてしまう。 悠斗が笑うたび、胸の奥がざわつく。 自分でも嫌だった。 こんなの重い彼女みたいじゃない。
昼休み、スマホが震えた。 私は資料から顔を上げ、デスクの隅に置いていたスマホを見る。 悠斗からだった。『今日後輩来るから適当に飲み物買っといて』 私は画面を見つめたまま、少しだけ指を止める。 ――後輩。 今朝言っていた人だろう。『わかった。何人?』